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羅城門跡 京都府京都市 |
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かつて大いに栄えた平安京。
その「顔」とも言うべき入り口が「羅城門」。 巨大で、朱塗りのそれは美しい門だったという。 しかし、その地は今・・・。 |
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小さな児童公園に、ひっそりと石碑が立つのみ・・・。 |
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石碑に寄りそうように立つ立て札には、羅城門の説明が書かれている。 その都の「顔」も、平安京の衰退と共に廃れて行き、最終的には盗賊のすみかとなった。
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この地に巨大な門が立っていたことを伝える立て札。 正面・32メートル・・・いかに巨大であったか想像に難くない。 |
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児童公園の入り口に、小さなお堂が建てられている。
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矢取地蔵。 石像、約1.6メートル。 |
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九条通りを隔てたショット。 |
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この矢取地蔵、背中に傷があるのだが、その傷のいわれがスゴイ。 天長元年夏、雨が降らずに困り果てていた時、空海(弘法大師)と守敏大師の二人が雨乞いの祈祷を行った。守敏大師の祈祷は全く効果が無かったのに、空海が祈祷を始めたとたん雨が降り出した。 |
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(左)羅城門跡石碑を後ろから。 児童公園がいかに小さいかが解ってもらえると思う。 (下)立て札の裏に、 羅城門の復元模型写真が掲載された、新聞の切り抜きが貼られてあった。 羅城門を偲ぶ人が貼りつけたのだろうか。 |
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話を羅城門に戻そう。 実はこの羅城門、私、平尾にとって忘れられない思い出がある。 一条戻橋のページでも出てきた、渡辺綱(わたなべのつな)という人物にまつわる伝説だ。 渡辺綱は羅城門に住む鬼を退治するため、門前で鬼と戦い、その腕を切り落とした・・・という話だ。 これはかなり有名な伝説で、岩手の「ねぶた祭り」の山車(だし)のデザインにも見られる(右の写真)。 |
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実は中学三年生の時、その伝説を題材にし、文化祭の劇をやったのだ!! そして主役・渡辺綱役は・・・なんと私。 あんなに私が輝く時は、もう二度と来ないやろ。 ・・・・ ・・・・遠い目。 下の写真が、その時の様子だ。 な〜んだか、懐かしいな・・・。 |
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平安京のシンボルとして登場し、その荒廃と共に消えて行った羅城門。今や、その地には寂しく石碑が立つのみ。
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アクセス: 京都市営バス「羅城門」下車、徒歩すぐ |
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