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富盛の石彫大獅子 沖縄県東風平町富盛 |
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沖縄の守り神である「シーサー」は、
琉球王朝時代に各地に伝わり、 今も沖縄県民の生活に溶け込んでいる。 東風平町富盛(こちんだちょうともり)という部落に、 有名な石彫りシーサーがあるという。 その名も「富盛の石彫大獅子」。 「これは見にいっとかなアカンでしょ!」 てなわけで2001年夏、そのシーサーを訪れることにした。 |
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「富盛の石彫大獅子」は、
小高い丘の上に立っているという。 さとうきび畑に囲まれた坂道を登っていく。 結構急な坂である。 木々が茂る頂上付近で、その坂は石段となる。 石段を登っていく。胸が高鳴る。 |
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石段の途中で上を見上げると、そのシーサーが見えた! 富盛大獅子である。 石段を急いで駆け上がる。 |
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ジャーン(古)! ついに姿を現した「富盛の石彫大獅子」。 正直私は、もっと大きいものだと思っていた。 高さ141センチメートル、体長175センチメートル。 他の部落に伝わるシーサーに比べれば確かに大きいが、 とりたててでかい!というわけではない。 この大獅子は、この「東風平町富盛」に伝わるシーサーだ。 その点では、「地域の守り神」で紹介したシーサーと意味を同じくする。 だがこの大獅子の存在価値は、歴史的にも造形的にも、 他のシーサーとは一線を画する。 この大獅子、村落祭祀上の目的で作られた沖縄のシーサーの中で、 最大、そして最古のものなのだ。 |
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大獅子の隣に、このシーサーを説明する石碑が作られている。 「地域の守り神」で書いた通り、部落に伝わるほとんどのシーサーは、製作年・製作者等は不明である。 だがこの大獅子は、製作者こそ不明なものの、「どういう目的でいつ製作されたか」がはっきりと解っている。 |
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1689年のこと。 |
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そしてこの大獅子、造形美術的にも素晴らしい。 各地に伝わるシーサーで、これほど精巧に彫られたものは存在しないだろう。 後から気づいたのだが、大獅子の所々に丸い穴が空いている。 それについては後述する。 |
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沖縄各地のシーサーは、ほとんどがこの大獅子をモデルにしたと言われている。
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後方に回ってみる。 現在のお土産シーサーでもおなじみの、ちょっぴりくりくりしたタテガミもちゃんとある。 尾なども妥協無く彫られている。よっぽど腕のいい彫り師が製作したのだろう。 蛇足だがこのシーサー、いわゆる「雄のシンボル」もちゃんとある。むうう。 |
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実はこの大獅子を訪れた後日、
豊見城にある「旧海軍指令部壕」を訪れた。 そこで見た写真展で、衝撃の写真を発見した。 |
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「大獅子を弾よけに日本軍基地を攻撃する米軍兵士」
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現在はのどか極まりない、ここ東風平町富盛。 「また戦争か」とイヤになるが、ここは沖縄。
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帰路に着こうと、丘を降りる。 真夏の青い空が眩しい。 道路に出ると「本数が少ない上に時間に正確でない」ことで有名な(笑)、沖縄バスの停車場がある。 おっと!!あれは・・・!!! |
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大獅子の最寄りバス停「第二富盛」のベンチに立てられている「大獅子レプリカ」。 |
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沖縄県に伝わるシーサーで、
最大・最古の「富盛の石彫大獅子」。 その存在はその地域のみならず、 沖縄全域の「シーサー文化」のルーツなのだ。 |
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「富盛の石彫大獅子」 沖縄県東風平町富盛 <アクセス> バス停「第ニ富盛」から徒歩10分 沖縄県全域に言えますが、 バスを使ったアクセスはお勧めできません。 車(レンタカー等)で行った方が賢明です。 |
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