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白梅の塔
    沖縄県糸満市国吉

2002年1月。
南部戦跡を目指してバスに乗ったのだが、
そのバスは途中で止まってしまう。
さらに南へ行くには、乗り換えが必要だという。

次のバスを待っている時、ある看板が目に入った。
「白梅の塔」という慰霊碑が、
そう遠くない場所にあるという。
私は行き当たりばったり、東へ向かって歩き出した。


道程には、数々の慰霊碑が立てられていた。
「栄里の塔」「山形の塔」「眞山の塔」・・・。
米軍司令官のものまであった。
かつてこの一帯で、悲惨な戦闘があったことを思い知る。

それらを見ながらさらに東へ東へと進むと、
目的地「白梅の塔」が見えてきた。

うっそうと茂る木々の木漏れ日の中に、それは真っ直ぐに立っていた。

道路を挟み、バス3台分ほどの停車場と、小さなトイレが備えられている。
あたり一帯は綺麗に整備され、ここが「特別な場所」であることを物語る。
後から知ったのだが、白梅同窓会の方が定期的に訪れて掃除しておられるという。

私以外に人影は無い。
木々の葉が擦れる音が、一層静けさを感じさせる。

塔の前の祭壇。
美しい花が供えられ、そして祭壇脇にはたくさんの千羽鶴が吊るされている。

変な話だが、慰霊碑に花が供えられているとなんだかホッとしてしまう。


正面の石碑には、たくさんの名前が刻まれている。ここで慰霊されている方々の名前である。

祭壇のすぐ隣に、白梅の塔の建立趣旨を記した碑がある。平成十年に作られた、新しい碑だ。

かの大戦時に、沖縄県立第二高等女学校の生徒で編成された「白梅学徒看護隊」が存在した。彼女らは前線で従軍看護婦として働き、その多くは悲劇的な最後を遂げた。

「白梅の塔」は戦死した白梅隊員、及びその関係者の霊の鎮魂を目的に建立されたという。

ここで、カンの働く人なら気づくかもしれない。
そう・・・この「白梅の塔」、建立背景が、
あの有名な「ひめゆりの塔」に酷似しているのだ。

多くの人が勘違いしているのだが、
沖縄戦で動員された学徒看護隊は「ひめゆり」だけでは無いのだ。
「ひめゆり」は、いくつかある学徒隊の一つなのである。
そしてこの「白梅」も・・・。
学校名 動員数 学徒名
沖縄師範学校女子部 157人 ひめゆり学徒
(乙姫+白百合→姫百合)
県立第一高等女学校 65人
県立第ニ高等女学校 55人 白梅(しらうめ)学徒
県立第三高等女学校 10人 名護蘭(なごらん)学徒
県立首里高等学校 61人 瑞泉(ずいせん)学徒
私立積徳高等女学校 65人 積徳(せきとく)学徒
私立昭和高等女学校 17人 悌梧(でいご)学徒
上の表の通り、多くの学徒隊が、従軍看護婦として働いた。
そしてその多くは、戦場で若い命を散らしていったのである・・・。

確かに「ひめゆり学徒隊」は二校の合同学徒隊であったこともあり、
規模も大きく、戦死者も多い。
しかし「ひめゆりの塔」に視線が集中するにつれ、
その他の学徒隊の存在は薄れてしまった。
これは「ひめゆりの塔」の観光地化による弊害とも言える。
同じくその青春を投げ打って戦地に赴いた乙女達がいたことを、
決して忘れてはならないと思うのだ。
参考写真、ずゐせんの塔(=ずいせんの塔、左)と悌梧(でいご)の塔(右)。
それぞれ「瑞泉学徒看護隊」「悌梧学徒看護隊」の戦死者を祀っている。
ずゐせんの塔は「ひめゆりの塔」から歩いてすぐのT字路に、悌梧の塔に至っては「ひめゆりの塔」に隣接する駐車場の奥に立っている。
どちらも「ひめゆり」の近くにあり、建立意義も同じにも関らず、訪れる人は少ない。
話を「白梅の塔」に戻そう。

塔は加工された、大きな琉球石灰岩の上に立っている。少し西洋的で上品なデザインだ。



向かって左に階段があり、塔のすぐそばまで登れるようになっている。
その階段を昇ってみる。


階段の途中に納骨堂がある。ここに遺骨が納められているのだろうか。


階段の影に隠れて下からは見えなかったが、納骨堂と並ぶように、ちょっと変わった石碑があることに気づいた。

階段を昇らなければ気づかなかっただろう、この石碑。
驚くかも知れないが、これが本物の「白梅の塔」なのだ。
「本物」というと語弊があるかもしれない。

今となっては立派な慰霊碑が立っているが、
現在のように整備される前は、この碑がぽつんと置かれているだけだったという。
つまりこれが「オリジナルの白梅の塔」なのである。

これはあの有名な「ひめゆりの塔」にも同じ事例がある。

現在「ひめゆりの塔」とされている大きな碑は、ずっと後に作られたものなのである。オリジナルのひめゆりの塔は、その前にぽつんと立っている小さな石碑なのだ。

現在のように整備される以前の「ひめゆりの塔」の写真を見たことがあるが、本当にこの石碑以外、何も無いような状況だった。


ツアーなどで、ガイドさんの説明等があれば別だが、一般観光客はこれがオリジナルの塔だとは、誰も思わないだろう。

参考写真、ひめゆりの塔
後方の大きな石碑は後世の作、オリジナル「ひめゆりの塔」はこの小さな石碑である。
さて、オリジナルの「白梅の塔」の裏側には、県立第二高等女学校元教職員だった方の句が彫られていた。
 


散りて なほ
香りい高し
白梅(うめ)の花



元教諭 金城宏吉
昭和二十二年一月建立


この句を繰り返し読んで、妙に納得させられた。

戦時中の日本において、彼女達が「お国のため」に働くのは当然のことだっただろう。
第二次世界大戦時下、当時はそれが当たり前のご時世だった。
「白梅」や「ひめゆり」を含め、従軍看護婦として働いた彼女達の存在意義は、当時はとても小さなものだったかもしれない。

しかし今、こうして彼女達は語り継がれ、現代の人々に平和を訴える。

彼女達の多くは悲しくも、戦火の中で散ってしまった。
だがその存在意義は、平和な現代日本において、計り知れないほど大きなものになった。
「白梅の塔」から離れ、その一帯を散策する。

萬魂(ばんこん)の塔」という慰霊碑が立っている。これは戦後、国吉部落各所に散らばっていた遺骨を拾い集め、部落民の手で立てられた慰霊碑だ。もちろんその遺骨とは、全て身元不明のものだ・・・。
小さな慰霊碑だが、4000柱もの御霊を祀る。


萬魂の塔に並んで、日本軍司令官の慰霊碑も立てられていた。

「萬魂の塔(手前)」。無数の名も無き遺骨を納めている。
奥は日本軍の司令官の慰霊碑(もしかしたら「お墓」なのかも知れない)。

「白梅の塔」に向かって右のほうに、小さな碑があった。
そこに刻まれている文字を読んで、一瞬息を飲んだ。
白梅学徒看護隊 自決之壕

白梅学徒隊は当初、もっと北にある部落、東風平町富盛の壕に配属された。
しかし、戦況の悪化に伴い、解散命令が下る。
逃げ場も無い戦火の中、いきなり解散などなんと勝手な命令だろうか。
白梅隊員のほとんどは、そのまま戦火の中で倒れていった。

その後、一部の白梅隊員は、この地で合流。看護隊としての活動を続行する。

そして昭和二十年六月、米軍の猛攻撃に遭い・・・。

小さなお堂があり、それに隣接した階段がある。
「自決之壕」入り口。奥まで降りることが出来る。
「自決之壕」はお堂の横にある階段から、最深部まで降りることが可能だ。

壕の内部に降りてみる。
案外、壕はそんなに深くは無い。空気はひんやりと冷たい。
小さな仏壇が設けられ、花や人形が供えられていた。

(壕内部の写真の掲載は見送ります。
どうか実際に訪れて、各々の目で確かめて欲しいと思います。)
「白梅の塔」から少し離れた場所に、「眞山の塔」と「山形の塔」という二つの慰霊碑が立てられている。

「眞山の塔」は、この近くの壕で集団自決した、日本兵を祀っている。
「山形の塔」は、戦死した山形県出身兵を祀っている。
ほとんどの都道府県の慰霊碑が「平和祈念公園」に集中しているのだが、ぽつんと離れ「山形の塔」が建立されているのには理由がある。 この場所に、山形県出身者で編成された隊の自決壕があるのだ。

この二つの慰霊碑も、是非訪れてほしい。


この「眞山の塔」の奥の森に、「白梅学徒隊 上の壕」がある。
「眞山の塔」。付近の壕で自決した日本兵を慰霊する。すぐそばには「山形の塔」がある。
この奥に、「上の壕」が。

「白梅の塔 上の壕」の説明を記した石碑。

ここは、軍の物資置き場であり、同時に白梅学徒看護隊の仮眠所でもあったという。


「昭和ニ十年六月二十二日、米軍の攻撃を受け、軍人・白梅隊員および一般住民が死傷した」。


石碑の後ろには石製の簡単な柵が作られているが、そこから下を見ても良く解らない。
右のほうから、もう少し奥に進めるようだ。

足元に気をつけながら、そちらの方へ行ってみる。

これは「壕」というより、ただの「岩陰」と言ったほうが正しいかもしれない。こんな場所で、敵の攻撃に遭ったらひとたまりも無い。


この壕は整備の手が加えられていないため、落ち葉などに埋もれていてとても生々しい。
私は白梅の塔に祈りを捧げ、
後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした。


青春をかなぐり捨て(あるいは奪われ)、
従軍看護婦として働き、
愚かな争いの中で散っていった乙女達。
それは今も「悲劇の物語」として語られる。
でも、それだけで終わらせたくは、無い。


彼女達の御霊が、安らかに眠れますように。

ずっと・・・永遠に・・・。

白梅の塔

沖縄県糸満市国吉
アクセス:バスターミナル「糸満出張所」から東へ2Km
      駐車スペースもありますので、
      車でのアクセスをお勧めします。

 
慰霊碑周辺は神聖な場所です。
訪れる時は是非、祀られている御霊に対し、
真摯な心を持つようお願いします。
      


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