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琉風の碑
     沖縄県糸満市
沖縄本島南部を走る、国道331号線。
この一帯は「南部戦跡」と呼ばれ、
沖縄戦で最も熾烈を極めた地域だ。

2001年夏、私はこの国道沿いを歩いていた。
そして偶然見つけた看板があった。


琉風の碑 150m
ただ、それだけの小さな看板。私が徒歩でなければ、確実に見落としていただろう。

持参していたガイドブックを調べて見たが、それらしき記載は全く無かった。

琉風の碑とは、何なのか。
興味を持った私は、その矢印が示す方向へと歩き出した。

 

夏の凄まじい日差しの中、 ゆるやかな坂を登って行く。

周りに見えるのは畑ばかり。のどかな風景が広がっている。観光客など一人も見えない。

そしてやがて「琉風の碑」が見えてきた。

 

これが「琉風(りゅうふう)の碑」。
大きな琉球石灰岩の上に、ひっそりと立っていた。
そう、「琉風の碑」とは、慰霊碑だったのである。

(沖縄の慰霊碑はほとんどが「〜の塔」という名前のため、
慰霊碑とは思いもよらなかった)

こんなところに、人知れず慰霊碑が立っていることに、
私は少し驚いてしまった。

どうやらこの碑は沖縄戦に巻き込まれた、
沖縄気象台職員の慰霊碑らしい。

(左上)碑を見上げる。青空、木々の緑に映える白い碑には、美しささえ感じる。
(右上)碑の裏には建立者と日付が記されている。
     「一九五五年 十二月十五日 日本・琉球気象台職員一同」

 

先に書いたように、この一帯は沖縄戦の最激戦区。
あとから知ったのだが、このあたりには、
まだまだ沢山の慰霊碑が建立されているという。

そしてそのほとんどは、あまり人の目にさらされることなく、
今もひっそりと立っているのだ。

「琉風の碑」の前に花束がひとつ、置かれていた。
誰かが、ここを最近訪れた証だ。
なんだか少し、ホッした。

 

「琉風の碑」の前に、新しい石碑があった。
そこには、この碑について詳しく彫られていた。
(上)「琉風の碑」の事が詳しく彫られている石碑。昭和52年に設置された新しいものだ。

(下)琉風の碑が立てられている琉球石灰岩に埋め込まれている石版。慰霊されている方々の氏名が彫られているようだが、かなりかすれている。
碑文によると、当時ここよりもっと北に「沖縄地方気象台」はあった。
沖縄戦のさなかもその近くの壕で業務を続けていたが、昭和20年(終戦の年)5月27日、戦況の悪化により壕を放棄、気象台職員は南へ、南へと撤退。

長く苦難の南下を続け、約一ヶ月後にこの地に辿りついた。





以下の文は、碑文の後半部分を引用する。
死闘を重ねて多くの同僚は戦没し負傷し 
いまや全く力つき果て (昭和二十年)六月二十二日に至り
生存者僅かに十二名となり
この岩陰に集り 最後の解散をし 
その後それぞれの悲しき運命をたどった

ここに この地を元沖縄気象台職員の終焉の地として
戦没者七十柱の御霊を祀るため  全国の気象台職員の芳志により
昭和三十年十二月十五日 琉風の碑が建立された
この岩陰に集い、最後の解散をする際、職員の方々はどんな思いだったのだろうか。


「琉風の碑」がある風景は、本当にのどかだ。
観光客など、訪れる気配も無い。地図にも載っていない。その存在を記すのは、小さな一枚の看板だけ。

それでいいのだ。だって、ここは神聖な場所なのだから。ここに祀られている方々が、安らかに眠ることができれば、それで十分なのだ。
琉風の碑の近くには、避難壕跡と見られる穴がたくさんある。かつてこの場所で、爆風を避けた人達もおられたのだろうか・・・。

正直、この「琉風の碑」を紹介していいのか、
私は結構迷いました。
ここは「名所」でもなんでもなく、
亡くなった方々を慰霊する場所なのです。

でも、ひっそりと人知れず立っていたこの碑を見た、
僕の言い知れぬ驚きと、説明できない感動を伝えたかったのです。

それをご理解下さい。

そしてその時の感動が、
私の南部戦跡巡りの原点になっています。



ここに祀られている方々が、
どうかずっと安らかに眠れますように。
この碑がいつまでもいつまでも、
沖縄の優しい風に吹かれながら、存在し続けますように。

琉風の碑
アクセス:沖縄県南部・国道331号沿いから
      看板の示す道を北へ150M
      
慰霊碑周辺は神聖な場所です。
訪れる時は是非、祀られている御霊に対し、
真摯な心を持つようお願いします。
      

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