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琉風の碑 沖縄県糸満市 |
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沖縄本島南部を走る、国道331号線。
この一帯は「南部戦跡」と呼ばれ、 沖縄戦で最も熾烈を極めた地域だ。 2001年夏、私はこの国道沿いを歩いていた。 そして偶然見つけた看板があった。 |
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「琉風の碑 150m」 持参していたガイドブックを調べて見たが、それらしき記載は全く無かった。
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夏の凄まじい日差しの中、 ゆるやかな坂を登って行く。 周りに見えるのは畑ばかり。のどかな風景が広がっている。観光客など一人も見えない。
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これが「琉風(りゅうふう)の碑」。 |
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(左上)碑を見上げる。青空、木々の緑に映える白い碑には、美しささえ感じる。
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先に書いたように、この一帯は沖縄戦の最激戦区。
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「琉風の碑」の前に、新しい石碑があった。
そこには、この碑について詳しく彫られていた。 |
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(上)「琉風の碑」の事が詳しく彫られている石碑。昭和52年に設置された新しいものだ。 (下)琉風の碑が立てられている琉球石灰岩に埋め込まれている石版。慰霊されている方々の氏名が彫られているようだが、かなりかすれている。 |
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碑文によると、当時ここよりもっと北に「沖縄地方気象台」はあった。 沖縄戦のさなかもその近くの壕で業務を続けていたが、昭和20年(終戦の年)5月27日、戦況の悪化により壕を放棄、気象台職員は南へ、南へと撤退。 長く苦難の南下を続け、約一ヶ月後にこの地に辿りついた。 以下の文は、碑文の後半部分を引用する。 |
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死闘を重ねて多くの同僚は戦没し負傷し
いまや全く力つき果て (昭和二十年)六月二十二日に至り 生存者僅かに十二名となり この岩陰に集り 最後の解散をし その後それぞれの悲しき運命をたどった ここに この地を元沖縄気象台職員の終焉の地として 戦没者七十柱の御霊を祀るため 全国の気象台職員の芳志により 昭和三十年十二月十五日 琉風の碑が建立された |
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この岩陰に集い、最後の解散をする際、職員の方々はどんな思いだったのだろうか。 「琉風の碑」がある風景は、本当にのどかだ。 観光客など、訪れる気配も無い。地図にも載っていない。その存在を記すのは、小さな一枚の看板だけ。 それでいいのだ。だって、ここは神聖な場所なのだから。ここに祀られている方々が、安らかに眠ることができれば、それで十分なのだ。 |
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琉風の碑の近くには、避難壕跡と見られる穴がたくさんある。かつてこの場所で、爆風を避けた人達もおられたのだろうか・・・。 | ||||||||||||||||||||||||||||
正直、この「琉風の碑」を紹介していいのか、 |
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