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喜屋武岬
   沖縄県糸満市喜屋武

戦争の悲惨さを私達に伝えてくれる、
沖縄本島南部地域一帯、
通称「南部戦跡」。

その中でも、特に悲劇の場とされている場所がある。
「喜屋武(きゃん)岬」。

2002年、年が変わって間も無いある日、
この岬を訪れることができた。



私が訪れた日は、雲一つ無い快晴。
一月初旬という真冬、 しかも日も傾きかけた時間だったが、
半袖でも十分の陽気だった。

喜屋武岬は「観光地」として整備されているわけではなく、
小さなトイレと休憩所はあるものの、
売店などは一切無い。
いわば、ちょっとした「見はらし台」といった感じの場所だ。


その景色の素晴らしさに、心奪われてしまう。
どこまでも続く海、青い空。暖かな潮風。
切り立った岩石に、絶え間無く打ち寄せる波。
自然の美しさが際立つ沖縄においても、有数の美しさだろう。

景観はこの上無く素晴らしいが、少し下に目を移すと、そこは断崖絶壁。写真では解り難いがかなりの高さだ。
落ちたらまず、命は無いだろう。

切り立った巨大な岩に、絶え間無く波が打ち寄せる。
それを眺めていると、思わず吸い込まれそうになる。
我に返り、ヒヤリとした。

 

 

 

 

 

(上)あたりは、まさに断崖絶壁。足がすくむ。
(下)沖縄国定公園に指定されていることを示す看板。
片隅に、少し傾いて立っていた。

岬の一角に、この地が「沖縄戦跡国定公園」であることを示す看板が立てられていた。
草むらに隠れ、よく見ないと見落としてしまいそうだ。


看板が傾いてしまっている。しっかりした整備をお願いしたい。

 

ひときわ目を引く、大きな青いモニュメントがある。
曲線基調でデザインされている、美しい慰霊碑。
「平和の塔」である。

この喜屋武岬は、沖縄本島のほぼ最南端にあたる。
かの沖縄戦で、敵の軍隊は南へ、南へと侵攻していった。
武器も持たぬ一般民はそれから逃れるため、南下を続けていった。

そして、やがてこの喜屋武岬に追い詰められ、
・・・・・凄まじい数の人達が、この岬から身を投げたのだ。

 

 

「平和の塔」に、その略史が彫られていた。慰霊碑は普通、慰霊されている御霊の数が記されているが、この「平和の塔」は何と一万柱。
まさにケタ違いだ。


・・・ここから身を投げた人達も、この美しい風景を見たのだろうか・・・。
実はこの「平和の塔」が青く塗られたのはごくごく近年。それまではコンクリート地の塔だった。

右の写真がかつての塔。青い塔も綺麗だが、個人的には昔のままのほうが味があって良かったと思うのだが・・・。

休憩所の向こうに、灯台が見える。その白さが青空に映える。

美しい景色に華を添える、アクセントとしての存在価値も大きい。


歩いてすぐの場所にあるようだ。そちらのほうへ行ってみる。

「喜屋武崎(きゃんさき)灯台」。
高さ15メートル。昭和47年6月建造。割と新しく、綺麗な灯台だ。


実はここから少し離れた場所に、大戦後にアメリカが建設した灯台「荒崎灯台」が立っていた。
だが、あまりにも光力が弱かったため船舶から苦情が殺到。
そこで本土復帰後、新たにこの灯台を立てたのだという。

・・・なんだか、皮肉な話だ。

 

機能的には、先代灯台より1500倍もの明るさと、2倍の光達距離を持つ。灯台の状況は、常に遠隔地から把握できる。

当時の技術を結集させたハイテク灯台なのだ。

「平和の塔」付近に戻り、しばらく海風に吹かれる。

片隅に、壊れた看板が立てかけられている事に気がついた。
固定もされていない、小さな古いベニヤ板に、
「平和への祈り」という詩が書かれていた。

「平和への祈り」

岬 岬 喜屋武岬
男性のような 荒波の岬
戦争は 西から追われて
南に流れ
着いた所は 喜屋武岬

老いも若児も ここが最後の場所
ここが 喜屋武岬
ここが おいらの岬

誰が書いたのかは解らない。
私は文学者でも無いので、詩的に巧いかどうかは判断できない。
でも、そんなことは問題ではない。

喜屋武岬という場所に、立てかけられていた古い看板。
その存在が、その言葉が、私の心に何かを残した。


看板は固定もされていないので、
このままではいつか失われてしまうだろう。
早急な対策をお願いしたい。





どこまでも美しい風景。
そしてそこに秘められた、悲しい歴史。

恒久平和。
この岬は、その願いを新たにさせてくれる。

喜屋武岬
アクセス:沖縄県本島のほぼ最南西端
             
喜屋武岬は国道からかなり外れた位置にあり、
舗装されていない道をずっと南下することになります。
最寄のバス停からは徒歩30分。
レンタカー等でのアクセスをお勧めします。
      

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