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伊原第一外科壕
    沖縄県糸満市伊原

沖縄・南部戦跡を巡る旅。
国道331号線沿いに、ひめゆりの塔へ向かっていた時。

道端にひっそりと立っている石碑があった。



第一外科壕入口



ただそれだけ彫られた石碑、そしてその後ろに続いている細い道。

左を向くと、少し先に「ひめゆりの塔」の賑わいが見えていたが、既に私の興味は、この先にあるものに向けられていた。

私は細い道の奥へと歩き出した。

(上)「第一外科壕入口」と彫られた石碑。徒歩でないと、なかなか気づかないだろう。

(下) 石碑と「ひめゆりの塔」との位置関係が良く解るショット。道路の先に、「ひめゆりの塔」の土産品店が見える。あの一帯はいつも観光客・修学旅行生で溢れているが、少し離れれば静かこの上ない。
辺りには私以外、全く人影はない。昨日は雨が降っていたため、道に大きな水溜りが出来ていた。この道は舗装されていないため、水はけが悪い。


さとうきび畑に隣接した道を歩いていくと、やがて木々に囲まれた一角が見えてきた。



入口は低いブロック塀で囲まれている。そう、ここが「伊原第一外科壕」なのだ。


階段があり、奥へ、奥へと続いている。いよいよその中に足を踏み入れる。
入口に、草木に隠れるようにして、古い石碑が立てられていた。はっきりと「第一外科壕」の文字が読める。

その下の石版にも何か彫られているが、かすれ、汚れてよく読めない。



あまりにも有名な「ひめゆりの塔」は、実際にひめゆり学徒隊が従軍看護婦として働き、隊員他約100名が自決した「伊原第三外科壕」のたもとに立てられている。

だが、ひめゆり学徒隊が配属されたのは、その壕だけではないのである。
そしてこの場所は、ひめゆり学徒隊が働いていた壕の中のひとつなのだ。
階段をゆっくりと降りて行く。かなり滑りやすく、気をつけないと転んでしまいそうだ。

下を見ると、木々の間から花束が見えた。
階段を降りきると、そこにはたくさんの花束と千羽鶴が供えられていた。

真夏にも関わらず、ひんやりとした空気が流れる。

木々の葉擦れの音以外は、何も聞こえない。
木漏れ日がゆらゆらと揺れる。
あまりにも静かな空間。
壕はかなり奥まで続いているようだ。奥は真っ暗で、どれぐらい深いのか見当も付かない。

近くに行ってみようとも考えたが、足元が不安定でかなり危険なのでやめておくことにした。
上を見上げると、この壕が結構深いことが解る。

外はあんなにも日差しが強いのに、ここにはそれは直接届かない。ちょっと不思議な気分になってしまった。

私は、何度も「ひめゆりの塔」を訪れたことがある。
平和な日本において、その存在はとても有意義なものだ。
特に、すぐそばに建てられている「ひめゆり平和祈念資料館」は、
戦争の悲惨さを伝える、貴重な施設であると私は思う。

だが、その一極に目が集中していくにつれ、
多くの人たちはあくまで、「観光」を目的として訪れるようになった。
(私自身、その観光客の一人ということも否定しません)
ひめゆりの塔が、
「慰霊碑」であることを忘れている人も少なくない。

「慰霊」「鎮魂」「戦争の悲惨さを知る」・・・。
本来の目的は薄れていっている気がする。


もし「ひめゆりの塔」を訪れることがあったなら、
是非、この場所にも来て欲しい。
ここで亡くなった人も、たくさんいる。
また逆にこの壕を訪れるのなら、
「ひめゆりの塔」及び「ひめゆり平和祈念資料館」に、
是非とも併せて行って欲しい。
この壕で何があったのかを、
色々な証言から知ることができるからだ。


最後に「ひめゆりの塔」の前に立てられている、
歌碑に刻まれている歌を紹介しようと思う。
ひめゆり学徒隊の引率教師であった、
仲宗根政善氏の有名な歌である。


いわまくら かたくもあらん
 やすらかに ねむれとぞいのる
  まなびのともは
彼女達は、確かにこの場所にもいた。

理不尽な戦争に運命を翻弄されながらも、
彼女達は必死に生きた。
時代がいくら流れても、その事実は決して消えない。
いや、消してはならない。

そう、心から思った。

伊原第一外科壕
アクセス:「ひめゆりの塔」から国道331号線沿いに西へ100M
      さらに細い道を南下しすぐ


文中にも書きましたが、是非「ひめゆりの塔」及び「ひめゆり平和祈念資料館」と併せて行かれることをお勧めします。


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