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伊原第一外科壕 沖縄県糸満市伊原 |
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沖縄・南部戦跡を巡る旅。 |
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「第一外科壕入口」
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(上)「第一外科壕入口」と彫られた石碑。徒歩でないと、なかなか気づかないだろう。 (下) 石碑と「ひめゆりの塔」との位置関係が良く解るショット。道路の先に、「ひめゆりの塔」の土産品店が見える。あの一帯はいつも観光客・修学旅行生で溢れているが、少し離れれば静かこの上ない。 |
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辺りには私以外、全く人影はない。昨日は雨が降っていたため、道に大きな水溜りが出来ていた。この道は舗装されていないため、水はけが悪い。 さとうきび畑に隣接した道を歩いていくと、やがて木々に囲まれた一角が見えてきた。 |
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入口は低いブロック塀で囲まれている。そう、ここが「伊原第一外科壕」なのだ。 階段があり、奥へ、奥へと続いている。いよいよその中に足を踏み入れる。 |
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入口に、草木に隠れるようにして、古い石碑が立てられていた。はっきりと「第一外科壕」の文字が読める。 その下の石版にも何か彫られているが、かすれ、汚れてよく読めない。 あまりにも有名な「ひめゆりの塔」は、実際にひめゆり学徒隊が従軍看護婦として働き、隊員他約100名が自決した「伊原第三外科壕」のたもとに立てられている。 だが、ひめゆり学徒隊が配属されたのは、その壕だけではないのである。 そしてこの場所は、ひめゆり学徒隊が働いていた壕の中のひとつなのだ。 |
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階段をゆっくりと降りて行く。かなり滑りやすく、気をつけないと転んでしまいそうだ。 下を見ると、木々の間から花束が見えた。 |
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階段を降りきると、そこにはたくさんの花束と千羽鶴が供えられていた。
真夏にも関わらず、ひんやりとした空気が流れる。 木々の葉擦れの音以外は、何も聞こえない。 木漏れ日がゆらゆらと揺れる。 あまりにも静かな空間。 |
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壕はかなり奥まで続いているようだ。奥は真っ暗で、どれぐらい深いのか見当も付かない。 近くに行ってみようとも考えたが、足元が不安定でかなり危険なのでやめておくことにした。 |
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上を見上げると、この壕が結構深いことが解る。 外はあんなにも日差しが強いのに、ここにはそれは直接届かない。ちょっと不思議な気分になってしまった。 |
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私は、何度も「ひめゆりの塔」を訪れたことがある。 だが、その一極に目が集中していくにつれ、 「慰霊」「鎮魂」「戦争の悲惨さを知る」・・・。 |
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いわまくら かたくもあらん やすらかに ねむれとぞいのる まなびのともは |
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彼女達は、確かにこの場所にもいた。
理不尽な戦争に運命を翻弄されながらも、 彼女達は必死に生きた。 時代がいくら流れても、その事実は決して消えない。 いや、消してはならない。 そう、心から思った。 |
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伊原第一外科壕
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