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西宮砲台

兵庫県西宮市

 


西宮砲台を示す石碑。 ひっそりと 、人々にその存在を教える。

 西宮は、海に面している街だ。そのため、海側には防潮壁が築かれている場所が多い。

 私は初めて西宮砲台を訪れたのは、 本当に偶然だった。

 壁づたいに自転車で走っている時、防潮壁に面したマンションの一角に、気になる石碑を見つけたのだ。

 「史跡西宮砲台」

 「この壁の向こうに、何かあるのだろうか…」。防潮壁に備えられている、小さな階段を昇ると…、目の前に突然、巨大な物体が現れた。

 


西宮砲台全景。本体に白い漆喰(しっくい)が塗られているのが、不気味さを引き立てる。

 


案内看板は近年に立てられた。

 想像していたより、ずっと大きい。

 高さ12メートル、内径17メートル。円周は53メートルにもなる。砲台と言うより、小さな要塞という感じさえする。

 砲眼(大砲を出す穴)11個と、1つの窓が等間隔に並んでいる以外は、なんの装飾も無い。

 明治17年(1884年)の火災で内部は焼けてしまい、残っているのは石郭のみ。昭和49〜50年の補強工事を経て、現在に至る。

 

 


固く閉ざされた扉の上部には、他の横長の砲眼とは違う縦長の「窓」がある。

 建設は文久3年(1863年)に始まり、慶応2年(1866年)に完成。

 当時、日本は鎖国状態だった。

 混沌とした時代。幕末の動乱、そして、異国船=黒船の来航。江戸幕府の政治家・勝海舟(かつかいしゅう)は黒船の来襲に備え、砲台を設計、4カ所に建設した。和田岬、湊川、今津…そしてここ、西宮。

 日本中から腕のいい職人を集め、莫大な費用と、約4年という月日を費やして完成させたが…、試しに大砲を撃ってみると、煙が砲台内部に充満して使い物にならんかった…という、 なんともお粗末な代物。

 「税金の無駄使い」は、江戸時代にも存在してたんやねえ。

 

 


所々の漆喰がはがれ始めている


…。

 建設されてから150年近く経っているため、確実に劣化は進んでいる。本体を良く見ると、漆喰(しっくい)がはがれている部分が目につく。
  だが、いくら古くても「砲台」。少々のコトでは壊れない頑丈さだし、補修工事の際、内部に鉄骨を入れて補強されている。このまま放置しておいても、数百年は倒壊しないんじゃないだろうか。

 それよりも問題は無数のラクガキ。柵の中に入り、本体に傷をつけている奴らがいる。

 西宮砲台に限らず、こういうラクガキって「××が好き」とか「○○愛してる」とか、カップルが残したと思われるものが多い。まず「やっていいコトとやってイケないこと」を考えろっつーの。

 

近くで見上げると威圧感があるが、離れてみると何故か寂しげだ。

 

 


内海をはさんだ遊歩道からのショット。幕府の人間達は、あの砲台で、日本を守ろうとしたのだろう。可笑しくも…悲しい。

 

 


黄昏の砲台。ライトアップなどは当然、皆無。

 日が暮れてゆく。砲台は巨大なシルエットとなって闇に溶け込んでゆく。

 西宮砲台は、まさに日本の命運をかけ、必死に作りあげたものの、結局は何の役にも立たなかった。

 それは、現代の人達にとってはただの笑い話にしかならない。

 しかし、当時の人達は、この日本を愛し、必死に守り抜こうとしていた。この砲台は、その人達の思いが、形になって残っているものだ。

 かつては汚点とされていながら、時代の流れと共に、世論の評価が高まって行ったものもある。砲台と同じ時代を生きた、新選組がいい例だ。

 いつか、この砲台が注目される日が来るかも知れない。

 

西宮砲台完成のわずか5年後、…明治維新。

 

西宮砲台
位置
西宮市西波止場町西波止

アクセス
阪神電車「西宮」下車→阪神バス「西波止町」下車、西南へ徒歩3分

備考
同型のものは、他に3基作られています。「湊川」は完全に消滅してしまったようですが、「和田岬」は三菱重工の敷地内に現存。「今津」は石碑が建てられています。
最終更新日時:2007年8月15日

 

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