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ちょっと変かも?「キャンドルナイト」

 

  私は、毎年「100万人のキャンドルナイト」という動きに参加している。簡単にいうと「夏至と冬至の日、夜の2時間だけ電気を消してみよう」というものである。カナダでの、原子力発電所の建設政策に反対する「自主停電運動」がらヒントを得て、日本式にアレンジを加えたものである。

「100万人のキャンドルナイト」公式HPは→こちら

 たった2時間、電気を消して、キャンドルの灯で過ごす。その中に、忘れかけていた“優しさ”をみつけた私は、積極的にキャンドルナイトの運動に参加してきた。ある時はイベントへと足を運び、ある時はキャンドルの光で入浴した。当HPでの告知はもちろん、わずかながらも「賛同金」という形で運動のサポートを行っている。

 初めは小さなものだった「キャンドルナイト」。しかし有名人の呼びかけや、東京タワー等の巨大施設のライトダウンイベントもあり、年を重ねるごとに広がりを見せている。この動きが始まった当初から参加してきた私にとって、喜ばしいことではある。

 だが。

 何でも大きくなりすぎると、必ず“ひずみ”が生まれてくる。「キャンドルナイト」とて例外ではない。この動きを支持している者として“ちょっとおかしいぞ”と感じたことについて、自分の思いを吐き出してみたい。

 ※このページに記載されていることは、当HP管理人・平尾の個人的な意見です。キャンドルナイトそのものを否定しているわけはなく、むしろ“大いに支持しているからこそ気になった点”について書いています。ご理解のほどをよろしくお願いします。

 

1.「キャンドルナイト」2時間限定でエコ?

 昨年のキャンドルナイトが終わり、私はどんな人が、どこでどのような夜を過ごしたのか興味を持ち、某コミュニティサイトの日記を覗いてみた。しかしそこで見たものは、ちょっと首をかしげたくなるものばかりだった。

 「家で『キャンドルナイト』しましたぁ♪地球の温暖化防止にひと役買っちゃった!」

 「面白そうなんで『キャンドルナイト』やってみた。俺ってエコしてるって感じ」

 キャンドルナイト参加者は増え続けているが、今も「地球温暖化防止のため、CO2(二酸化炭素)排出を減らすためのイベント」と考えている人は多い。大きく見れば、それもひとつの目的なのかも知れないが、ごくごく一面でしかない。…ぶっちゃけ電気を消してもキャンドルを燃やせばCO2は発生するし、たったの2時間だけ電気を消したところで、どれほどの効果があるというのか。

 では、キャンドルナイトの本当の意味とは、どこにあるのだろうか?

 その答えを、ある人が教えてくれた。「辻信一」さん。キャンドルナイトの呼びかけ人代表。つまり、キャンドルナイトの“仕掛け人”ともいえる人である。

大阪で行われた辻信一さんのトークイベント

 辻さんは大阪で行われたあるイベントで、キャンドルナイトに込められた思いを、静かに、しかし熱っぽく語ってくれた。

 「日本は豊かになった。でも、今の豊かさは『本当の豊かさ』なのか。ある意味、現代の豊かさの最大の象徴である【電気】を消して、キャンドルの炎の光で過ごすことで、『本当の豊かさとは何か』を考えてみよう」

 なるほど、と唸った。つまりキャンドルナイトとは、自分を見つめなおし、何かに気づくための“スイッチ”なのだ。呼びかけられている「2時間」で終わってしまっては意味がない。その2時間で何を感じ、そしてそれを「これから」に生かしていくかが重要なのだ。

 例えば、キャンドルナイトの中心となっている「ライトダウン」。本当に電気が必要な時間に、あえてそれを捨ててみる。そうすれば、いつもは当たり前のように存在する電気の“ありがたさ”を感じることができるだろう。電気を使うことは悪ではない。しかし、それを過剰に使うことは人間のエゴでしかない…そこに気づき、小さなライトダウンが広がり、続いていくことで、初めて効果となって表れてくる。

 大切なのは、キャンドルナイトの時間を“点”で終わらせず“線”にしていくコトなのだ。

 

2.巨大化&商業化していくイベント

 「キャンドルナイト」が有名になっていくにつれ、関連イベントも巨大化してきている。私の住む関西で、それが顕著に現れているのが「キャンドルナイト@OSAKA CITY」だろう。キャンドルナイトに近い日に2日間、それぞれ別の場所をキャンドルで周辺を彩る。

「アート」としてはとてもキレイなんだけど…

 私も時間が合えば会場に足を運んでいる。キャンドルで様々な模様やオブジェを作り、非常にキレイなイベントなので、集客も上々である。

 しかし「キャンドルナイト」のイベントとしてはどうだろうか。ぶっちゃけ、会場に来ているどれだけの人がキャンドルナイトの意味を理解しているだろうか。キャンドルナイトを告知するブースはあるものの、ほとんど役割を果たしていない。人は集まっているのだが、誰も「キレイ〜」を口にして、携帯電話でキャンドルを撮影して、そして去っていく。

 これって何なのだろう。キャンドルを使った「アートイベント」…それ以上でも、それ以下でもない。イベントを行うなら、今も深く認知されていないキャンドルナイトの意味や、思想などを積極的に伝えなければ意味がないのでは。ただ見て楽しんで、で終わってしまうイベントでは、何も実を結ばない。これではただの夏祭りと同じだ。

 そして近年、鼻についてきたのがキャンドルナイトの商業化だ。キャンドルナイトの公式HPには、企画したイベントを自由登録できるページがある。当初は「キャンドルの光の中で語り合いませんか」といった、小さなイベントが多かった。しかしキャンドルナイトが有名になるにつれ、だんだんと主催者に利益を出すようなイベントや、店舗の宣伝が増えてきた。

 私もある時、あるイベントに足を運んだのだが…実は主催者が「キャンドルナイト限定ディナーセット」を売るためのものだった。

 キャンドルナイトの知名度が高まるにつれ、一部でそれを“ビジネスチャンス”として捉えている思惑も見え初めてきた。少なくとも、キャンドルナイトとは、個人の利益とは対極にあるべきものだ、と思うのだけれど。

 

3.政治的&攻撃的なキャンドルナイト?

 私はこれまで何度もキャンドルナイト関係のイベントに足を運んだが、各所で良く出るのが「憲法第9条(戦争の放棄)を守ろう」という話だ。実際、キャンドルナイト呼びかけ人の中には、グローバルな視点から平和活動をされている人も多く、そういった話が出ることには納得できる。私も個人的には、世界に誇るべき9条は守っていくべきだと思うし、そこに込められている平和への思いが、世界中に広がってくれたら嬉しいとも思う。

「9条」の素晴らしさを語るのはいいけれど…

 しかし、2007年のあるイベントでの出来事である。途中のフリートーク中に、キャンドルナイトの意義を語っていた司会者の学生。その話はいつしか戦争の話になり、流れのままに9条を守りたい、ということを語りだした。そして9条の素晴らしさをひとしきり語った後、こんなことを言い出した。

 「だから次の選挙では、9条を支持している候補者に投票してください」

 これにはちょっと引いた…。9条の大切さを語るのと、選挙の投票にまで言及するのは話が違う。キャンドルナイトの奥底には、大きなテーマとして「平和」が流れているとは思う。9条の大切さも説いてもいいと思う。だが訴えるべきボーダーを認識しておかないと、キャンドルナイトは政治的な思想煽動イベントのようになってしまう。

 キャンドルナイトからは極力、こういった政治色を排除したほうがいいのではないか?少なくとも先のような発言は、よからぬ問題を起こしかねない。

 

公式HPに掲載されたニュース

 そして、私がどうしても違和感を拭えなかったのが、2008年7月7日に公式HPで呼びかけられた「フリーチベットのためのキャンドルナイト」だ。一ヵ月後の北京オリンピックの開幕式の夜、一斉にキャンドルを灯そう!という呼びかけだ。

 チベット問題はもはや中国だけのものではなく、世界規模なもの。多くの人に現状を知ってもらい、考えていかねばならないことであると思う。その姿勢に対しては心から敬意を表したい。

 しかし…この動きを、キャンドルナイトの公式HPで伝えるべきなのだろうか?さらに外部リンクが張られており「今すぐ登録してください」と、積極的な参加を呼びかけていたが…。

 アナウンスでは“自由と希望の祈りのためにキャンドルを灯す”とあったが、その後にしっかりと「史上最大のプロテスト(抗議)が行われることになっています」と、その光に攻撃的な意味が込められていることが明記されている。もちろんその相手とは…タイミングを考えれば中国であることは明らかだ。

 キャンドルナイトは確かに“それぞれ何をしてもいい”イベントである。だがそれは、地盤に「スローライフ」という幹があってこそのもの。同じキャンドルを灯すといってもベクトルが違う。「フリーチベットのためのキャンドルナイト」は、「100万人のキャンドルナイト」公式HP内で、「これもキャンドルナイトの一環です、さあ皆さん参加しよう!」という紹介はすべきではなかった、と私は思っている。

 誤解のないように重ねて言っておくが、動きそのものについて異を唱えているわけではない。むしろ賞賛すべきものだと思う。だが、どちらもキャンドルを灯すが、方向性が全く違うものではないか?それを同じように伝えるのはおかしくないか?ということだ。

 「100万人のキャンドルナイト」は穏やかで平和なものであるはず。少なくとも、平和の祭典とされているイベントの開催日に、特定の国に対して攻撃的な行動を取ることは“違う”はずである。

 

4.「豪快な号外」でギネス登録?

 ちょっと納得できなかった出来事が、2007年にあった。キャンドルナイトのイベント会場などで配布された新聞「豪快な号外」である。

「豪快な号外」表紙

 これはキャンドルナイトの事務局ではなく、地球環境保護を訴える某団体が製作・配布したフリーペーパーだ。「30秒で地球を変えちう新聞」との副題がつけられており、中には「こうやったら地球温暖化は止められる」という、身近でできるエコ運動を紹介している。呼びかけ人の中には、先出の辻信一さんや、ミュージシャンの坂本龍一の名前もある。

 それだけ聞けば、まぁいい新聞じゃん!とも思えるのだが…この新聞には、実は大きな目標が掲げられていた。

 「ギネスに申請する」

 この「豪快な号外」が印刷された部数はなんと3000万部。これを全て配れば、フリーペーパーの配布部数として世界一になるというのである。

 …これには疑問。需要と供給を合わせる、つまり無駄を出さないのがエコじゃないのだろうか。エコを伝えるための新聞が、初めから「ギネス申請を狙う」ことを前提に刷られているなんてどうだろう。いくらいい内容だったとしても、それを伝える手法に問題があるように思えてならない。しかも、3000万部という数は、当初の予定の4900万部(日本の全世帯に一部づつ行き渡る計算)からの下方修正なんだそうだ。

 全国でボランティアの方々が配布に協力したというが、イベント会場での配布姿勢は少々強引だったように思う。できるだけ多くの人に読んでもらいたいという思いか、はたまた先の理由から“数”をさばかなくてはいけないからか…押し付けるような渡し方も気になったし、新聞の名前は確かに「号外」だが、この内容のものを「号外でーす」ってのは、ちょっと違うんじゃないか。

 結局、配布数を証明できずにギネス登録を拒否されたという。製作側は心から地球環境のことを考えていたのかも知れない。また、このプロジェクトの支持者も多くおられると思うが、私個人としてはこういうやり方には賛同できない。

 

 私は「キャンドルナイト」に賛同している。もっともっと優しさの輪が広がればいいと思うし、協力もしたいと思っている。それだけに、それを取り巻く様々なコトについて、過剰に反応してしまっているのかも知れない。

 回数を重ねるにつれ、大きな広がりを見せている「キャンドルナイト」。もはや一種のお祭りと化してきているので、しばらくこの巨大化は続いていくと思われる。思いもしない弊害も出てくるかも知れない。数年後のキャンドルナイトの風景は、さらに様変わりしている可能性もある。 私自身、近年はイベントに積極的に出かけることもあり、キャンドルナイトに対する考えは変わってきているようにも思う。少なくとも、このページのようなものを作ろうと考えたあたり、やはり純粋に参加して満足、とはいかなくなっているのかも知れない。 でも。

 私にとってのキャンドルナイトの基本は、これから先も「ロウソクの明かりで、のんびりと過ごす時間」。…たとえイベントとしてのキャンドルナイトが終わっても、そのひとときだけは、ささやかに守っていきたいと思っている。

 ◇   ◇

 ここから先は、後日追加した文章です。

  2008年の夏至も近づいたある日、キャンドルナイト関連のイベントで再び辻さんの話を聞くことができた。またもや、ウムムと考えてしまうような貴重な話ばかりであった。

 そしてイベント後の交流会…私は思い切って、辻さんに直接質問をぶつけてみた。“これから”を考える機会であったはずが、その場だけのお祭り、商業化してきているキャンドルナイトの現状について“仕掛け人”である辻さんはどう考えておられるのか、是非とも聞いてみたかったのだ。突然の質問にも関わらず、辻さんは丁寧に対応して下さった。

 「やっぱりねぇ、大きなイベントとして開催しないと、マスコミは取り上げないからねぇ。仕方ない部分もあると思います」

 やはり、辻さんもキャンドルナイトを取り巻く環境の変化には気づいているようだった。しかしそこに、落胆の表情は無かった。優しい目のまま、辻さんはサラリとこう言った。

 「まぁ、そんなに目くじらを立てることもないと思いますよ。人それぞれなんだし、ね」 

 この答えに、辻さんの実践する「スローライフ」の一端を見た気がした。

 変わりゆくキャンドルナイトについて、やはり「おかしい」と思う気持ちは今も変わらない。支持しているからこそ、苦言を呈すのも必要だと思う。…だけど、あんまりピリピリと気にするのはやめにしようかな。それでキャンドルナイトに出会った時に感じた“優しさ”を無くしちゃったら意味ないもんね。

 ◇   ◇

 全ての人に、素敵なキャンドルナイトが訪れますように。

(最終編集日:2009年6月12日)

 

 

 

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