2002年のある時、一部のサイトで大論争が行なわれ、
それを第三者として閲覧することができた。
その騒動は、ある現実の事件が発端であった。
事件の概要を要約すると、次のようになる。
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某県、午前2時頃。 写生に来ていた女児が、誤って川に転落。
男性2人が、女児救出のために川に飛び込んだ。
女児は重態ながらも、救出。
だが、助けに行った男性2人は、帰らぬ人となった…。
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実に痛ましい事件である。
女児救出のために命を投げ出した男性2人は、
まさに「名誉の死」と言うべきものである
ところがその事件の僅か2日後、
あるサイトが、この事件をネタに短編小説を書いた。
タイトルはズバリ、「名誉の死の真相」。
その内容は…。
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前出の事件とほぼ同じ設定(県名・河川名も同じ)で、
男性2人がおぼれ死ぬ。
その事件をニュース番組で取材中、
知人の証言から意外な事実が。
実は男性2人は、女児を助けようとしたのではなかった。
この2人は少女趣味があり、
溺れる女児にいたずらしようとした末の死だったのだ。
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…といったものだった。
この文章を書いたのは、一日のアクセスが1000を越える大手サイト。
瞬く間にその波紋は広がって行った。
「死者への冒涜だ」
「いや、ブラックジョークは、不謹慎なものほど面白い」
「書いていいことと、悪いことがある」
「書いていけないことなんて、この世に存在しない」
まさに賛否両論であった。
個人的には、私は「否定派」だった。
断わっておくが、私は「ブラックジョーク」は嫌いでは無い。
というか、私の好きな作家・星新一さんは、
ブラックジョークを得意としていた作家である。
ブラックジョークの真髄は、
「不謹慎だけれども笑ってしまう」
ということであると思う。
ちょっと引いてしまうけれど、面白い。
そんな禁断の笑いがいいのだ。
ところが問題になった短編小説は、全く笑えなかった。
あまりにタイムリー、明らかに死者を冒涜する内容。
これは、ブラックジョークと呼べるものではない。
そういう思いからの「否定」だった。
ところが「擁護派」の意見にも興味深いものがあり、
純粋に「ブラックジョークとはどうあるべきか」の論争を、第三者として閲覧していた。
この文章の是非については、ここでは深く言及しないでおく。
それよりも私がここで書きたいのは、ブラックジョークがどうこうとは別の話だ。
私が今回の騒動を見て引っかかったことは、別のことなのだ。
渦中の賛否両者の意見は、終始「ブラックジョーク論」に一貫されていた。
私はそれ以前の問題…。
「あの文章そのものが世に出た」ことに対し、考えることがあった。
もしも、だ。
一昔前、ネットなどと言う道具が無かった時代ならどうだろう。
あの作者が、実在の事件をネタにブラックジョークを書いた。
それを世に出そうと思ったら、どうせねばならないか。
大きく分けて道は2つ。
(1)、新聞社・雑誌社に投稿する。
(2)、自らで本を作り、自費出版する。
当然ながら(2)は資金が要るので現実的ではない。
選択肢はほぼ(2)に限られる。
で、実際、その文章を雑誌に投稿したとする。
果たして例の「ブラックジョーク」が、雑誌に掲載されるだろうか?
ほぼ100%、掲載されないであろう。
この文章を、本当に世に出していいのか。問題は無いか。
雑誌編集のスタッフが何重にもチェックした上で、掲載・不掲載が決定する。
今回の「ブラックジョーク」は、起こったばかりの実在の事件を笑い話にしたもの。
しかもそれは、世間では「名誉の死」とされているものである。
人物名こそ変えているが、時間や場所等、設定にあまりにリアリティがありすぎる。
亡くなった方の遺族への配慮はもちろんのこと、
世間からの非難を浴びるのは目に見えているからだ。
(今は「作品としての完成度」は度外視して考える。)
だが今回、その文章が、あまりにも簡単に世に出た。
何故だ???
答えは簡単。「ネットだから」。
今、自分の文章を世に出したければ、
雑誌社に投稿する必要も、自費出版する必用も無い。
鼻歌混じりに文章を打ち込んで、「送信」ボタンをポチ!と押せば、
一瞬にして全世界・何億もの人が自由に閲覧できる場所に、
その文章を掲載することができるのだ。
さらにそれは、完全な「匿名」にすることも可能ときた。
不特定多数の人が読む文章には、
絶対「フィルタ」が必用だと、私は思っている。
先ほども触れたように、当該の文章には問題が無いかをチェックし、
その上で世の中に出す、といった作業が必要だと。
だがネットの世界では、その「フィルタ」は限りなく薄い。
多くの場合、ネットにおけるフィルタは、
サイトマスター(管理人)というイチ個人に委ねられている。
結局ネット上の「フィルタ」は、作者個人個人の価値観に委ねられることとなるのだ。
今回の騒動を、第三者として見ることができて、改めて思った。
「送信ボタンのワンクリックの重み」。
もっと平たく言えば、ネットに何かしらの文章をUPするとき、
よくよく自分の文章を見直せ…ということになるか。
例えば掲示板で。 気軽に自分の思ったことを文章欄に書いた。
あとは「送信」ボタンをクリックすれば、その文章は、掲示板に書きこまれる。
でもちょっと待って!
掲示板はネット上にある。 ネット上にあるということは、
「全世界に向けて、その文章を配信する」ということ。
それは…、
雑誌に投稿し、何重にもフィルタをかけられるのと同じ重み。
それは…、
自費出版する費用、何百万円を用意するのと同じ重み。
いや、「全世界の人が気軽に読める」という点で見れば、
それらよりもずっと重いかも知れない。
掲示板で。 日記で。 サイトの更新で。
「送信」ボタンをクリックする前に、もう一度考えよう。
その文章を、全世界に流していいかどうかを。
私の中の「フィルタ」は機能しているかどうかを。
追記:
奇しくも時をほぼ同じくして、ある裁判に判決が下った。
ネット上で猫を虐待する様子を流していた男性が、
動物愛護法違反で懲役6ヶ月の刑に服することになった。
彼にとっての「フィルタ」は存在していたのだろうか。
甚だ疑問を感じずにはいられない。
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