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なやさん、あなたは強かった

 

本日は2002年、11月1日。

一年前の今日・・・私は大切な友人を一人、失った。
もう、あれから一年になるのか…。

【1】

私とその友人・・・なやさん(仮名)は、本当にひょんなコトで知り合った。
2000年12月26日。 私が入院中の時である。

ある日、私のノートパソコンに、一通のメールが届いた。
初めてのやなさんからのメールだった。
共通の友人から私の事を聞き、メールを送ってきてくれたのである。

なやさんは、3人のお子さんがいる主婦。
そして彼女も、現在入院中なのだという。
病名はなんと…白血病。
凄く重い病気と戦っている中なのに…。

なやです!こんなおばはんにメール送られるのいやでしょうが、我慢してね!(^.^#)

そんな書き出しのメールが、私となやさんの出会いだった。

それから、なやさんとのメールのやり取りが始まった。
なやさんのメールは、白血病という病気を感じさせない。
送られて来るメールはどれも、未来への希望に満ちていた。
メールによると骨髄移植後も順調に回復し、
このまま行けば、近いうちに退院できるという。

そして、2001年2月24日、
なやさんと私は、偶然にも、同じ日に退院することになったのである。

私もりょう君と同日に退院決定しました。生きていられる事に感謝して!万歳!

遠く離れているけれど、二人で同時に退院できる!
なやさんと同じ喜びを共有できることが、とても嬉しかった。

 

私となやさんの退院から約2ヶ月。 春がやってきた。
そして、私は初めてなやさんと会うことが出来た。
なやさんは・・・「おばちゃん」だった。
どっからどう見ても・・・「おばちゃん」だった。
白血病と聞き、「ほっそりした薄幸そうな女性」を想像していた私は、
なんだかきつねに抓まされたようだった。
そして何より、底抜けに明るい。
「りょうくん、初めまして!」
そう話しかけてきたなやさん。
ニコニコした笑顔がとても素敵な、
生きるための希望に満ち溢れた「おばちゃん」だった。

なやさんに会えて、良かった。 そう、心から思った。

 

2】

春は短い。桜が完全に散ると、
春の陽気は「暑さ」へと変化し、 凄まじい早さで夏に移ってゆく。
なやさんと会って一ヶ月ほど過ぎた頃には、もう初夏となっていた。

そんな、ある日。 ある知らせが入った。
それを聞いて、私は絶句した。
なやさんの病気が再発…。
なんと・・・助かる可能性は、僅か10%だという・・・。。
なやさんの病気は、もう心配無いと思っていた私は、

「なぜ」「どうして」の念が振り払えない。

助かる確率が、わずか10%。
それって・・・ほとんど・・・・。

 

なやさん、入院前日。 私はなやさん宅を訪れることになった。
なやさん宅に向かう途中、
「どんな言葉をかけたらいいんだろう」
その事ばかり考えていた。
一時は退院するまで回復したというのに、
再発、再入院、そして助かる確率は10%。
そんな彼女に、どんな言葉をかければいいのか、私には解らなかったのだ。

しかし・・・。
「あら、いらっしゃい〜〜!よう来てくれたねえ〜〜!」
そう、私を迎えてくれたなやさんは、
以前会った時そのままの、あの「おばちゃん」だった。
ニコニコした笑顔がとても素敵な、
生きるための希望に満ち溢れた「おばちゃん」だった。
本当に、明日から生死を賭ける入院を控えた人なのだろうか。
スゴイ人だ、この人は。

結局、なやさん宅にいる間、 入院の話はほとんど出なかった。
色んな話して、食べて飲んで、笑ったひとときになった。
初めの不安はどこへやら、だ。
この人なら、きっと奇跡を起こしてくれるはずだ。
また、この素敵な笑顔を見せてくれるはずだ。

私は自然と、そう思えるようになっていた。

 

【3】

なやさんが入院してからも、 たびたび、メール交換をする事ができた。
なやさんは携帯端末を病院に持ち込んでおり、
軽いメールのやり取りなら可能なのだ。

彼女のメールには、時々難しい名前の治療法が出てくる。
そしてそれによって、色んな副作用があるということも。
しかし彼女のメールからは、悲壮感は全く感じられない。
その苦しさを笑い飛ばすかのような文章だ。
そしてどんな時にも、必ず前向きな言葉で締めくくる。

負けません!白血病なんかくそくらえ!
 私頑張る。退院出来たら焼肉パーティーしよね!
 その時は素敵な彼女と来てね(笑)

きっと乗り越えてみせる!
 そう信じて今日生きてる事に感謝しつつ、白血球が増えて来るのを待ちます。

(共に、なやさんからのメールより)

ほんとうに、どちらが病人か解らない。
私は、他の友人と接するのと同じように、
日常で体験した事や、感じたことを書いて、送った。
私はなやさんへのメールには、
「頑張れ!」のような、励ましの内容は書かないことにしていた。
なんだかそんなメールを送るのは、彼女に失礼な気がしたから。

 

8月も終わろうという時、 私は、ある物をなやさんに贈った。
私が「うわあちゃん」と名付けている、手作りのダルマだ。
元々は高校の頃、後輩に大学合格祈願として作ってあげたもの。
そして、後輩は見事、大学に合格した。
(ちなみに「うわあちゃん」の名は、その後輩の当時の口癖から来ている)
それ以来、時々作っては、誰かにプレゼントしているのだ。
そのダルマを、なやさんへプレゼントすることにしたのだ。
いや、是非、なやさんに贈りたい。

数日後、なやさんからのメールが届いた。

さっそく願かけながら片目を入れさせてもらいました。
 今私のベッド横でいつも見つめてくれてるうわぁちゃんです。
 本当に有難う!うわぁちゃんが今度の治療を成功に導いてくれると信じてます

彼女の壮絶な戦いに、少しながら力になれただろうか。
私はいつか…あのダルマに両目が入ることを願った。

 

【4】

夏は終わりを告げ、次第に木々が色づき始めた頃。
ある知らせが入った。

なやさんが、非常に危険な状態になった、
もう、助かる見込みは、ほとんど無い状態だと…。

そんなバカなっ!!

私はなやさんの入院している病院に駆けつけた。
なやさんの病床に行くと、そこになやさんが居た。
いつもの笑顔と元気は無かったが、確かになやさんだ。
もちろん絶対安静、ベッドに横になっている。
高熱で、必用以上の動作はできないようだった。
非常に危険な状態であることは、素人目にも解る。

何を言っていいか解らない。
私が絶句していると、なやさんのほうから、
「あ、りょうくん、どないしたん」
そう声をかけてきた。
小さい声だったが、はっきりと。
そこで、なやさんの言った言葉に驚いた。

絶対良くなるから。病気なんかに負けへんよ」。

なんちゅう人だ。病状は、本人も知っているはず。
こんな状態になっても、しっかりと生きる意思を持っている。
私は心から思った。
大丈夫だ!
この人なら絶対大丈夫だと確信した。
たとえ助かる可能性が0.00000001%だとしても、
それを実現させる力を、この人は持っている。
信じよう、なやさんの生きようとする力を。
本人がこんなに頑張っているのに、
他人の私が弱気になってどないすんねん!!

なやさんの手を握ったら、物凄く熱かった。
高熱が続いているのだから、当たり前ではある。
しかしその熱さは、 彼女が生きようとする、魂の熱さのように思えた。

 

それから数日後に、なやさんからメールが来た。
旦那さんの「代メール」という形ではあったが・・・。

前向いて生きてまっせ〜。必ずや復活しますので待っていて下さい

それが、なやさんからの最後のメールになった。
なやさんが亡くなったのは、 このメールの僅か10日後、
2001年、11月1日のことだった・・・。

 

【5】

私は、なやさんの葬儀に出席した。
遺影の前に、なやさんの遺品が並べられていた。
その中に、私が送ったダルマ「うわあちゃん」が…。
ダルマは・・・片目しか入っていなかった。
必ず、その両目が書き込まれると信じていた私は、
悲しくて、切なくて、もうどうしようもなくて、
溢れる涙を止めることができなくて…。

なやさんは、病気に打ち勝つことはできなかった。
しかし・・・これだけは、はっきりと信じている。

なやさんは決して、病気に「負けなかった」。

最後の最後まで、なやさんの口から、弱音を聞くことは無かった。
出てくる言葉は、生きる力に溢れていた。
なやさんは、決して病気に負けなかった。

 

 

あれから一年。
今でも鮮明に、なやさんの姿が目に浮かぶ。
あの、素敵な笑顔を。
あの、病床で握った手の熱さを。
あの、生きるために頑張っていた姿を。

その記憶は、私に勇気を与え続ける。

なやさん、あなたは強かった。
私は、ずっとあなたを忘れない。

(2002年11月1日)

 

 

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